白黒テレビ
本日、ふれあい毎日8月号が発行された。dachs飼主の「僕たちの昭和ものがたり」第24回目が掲載されたので、メモしておく。我が家に待望のカラーテレビ様が入ってきたのは40年代も後半に入ってからだった。木目調で垂れ幕付きの観音開きの大型贅沢家電品で各メーカー「嵯峨」「名門」「王朝」「薔薇」などのネーミングがついて応接間に置かれていた。カラー番組はラテ欄でも、放映中のテレビ画面の右隅にも小さくカラーと表示されていた。テレビから見ている座卓まで長い接続コードが付いてはいたが、手元リモコンでチャンネルが変えられるのはとっても便利だった。字数の関係でカラーテレビの思い出は書ききれなかった。
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テレビは昭和30年には放送を開始していたが、大半の家庭ではまだまだ高嶺の花で、電気屋の店先や銭湯、街頭テレビで大相撲やプロレス、ドタバタ新喜劇などを大勢の人たちが立ち見でたのしんでいた。
自宅電話もなく、呼び出し電話を使わせて貰っていたお向いさんでテレビを見せて貰っていた。カラーテレビも30年代半ばから放送を開始していたが、わが家では40年代後半まで白黒テレビが2代も続いた。当時ほとんどの家庭にカラーのテレビは無かった。
映画でさえ総天然色ではなくパートカラーが多く、テレビ番組もモノクロ放送が中心だった。角丸のブラウン管で下側に大きなつまみが付いているだけの白黒テレビでも高価な家電品で家族皆が大切に扱った。
テレビの正しい見方は、ブラウン管の直径7倍の距離から部屋を暗くして見るとされていた。選局もリモコンではなく、ロータリー式のつまみで「ガチャ、ガチャ」と乱暴に扱うとスポッと抜けてしまう。
機嫌が悪いと画面がコマ送りみたいに上から下へ流れたり画像が歪んだりするので、頻繁に裏側の結線を確認したり前面つまみで微調整した。真空管式なので電源オンになってもすぐに映像は出ないなど細かなことはあったが「面白い番組を見るために」と思うとそんなことはたいしたことでは無い。
あの頃のテレビは家族全員で見るような西部劇やホームドラマがたくさんあった。今と違って、ドラマも30分枠の単発連続番組が多く、毎週一家団欒で楽しめたような気がする。
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