dachsy[Wwgbvx dachsy[Wwx dachsy[Wwx dachsy[WwUx dachsy[Wwgbvx dachsy[WwvtB[x dachsy[Wwx dachsy[WwڋqΉx dachsy[WwdbΉx dachsy[Ww낢x

乗り物

 乳母車に乗っていた思いではないが、太い藤でできたバスケットに綿入れの布団を敷いた乳母車に乗っていた赤ちゃんは子供の頃、よく見た。車は子供用三輪車を少し頑丈にしたような車輪。現代のベビーバギー・ベビーカーと呼ばれる折畳式のものはDachs飼主に赤ちゃんが出来た頃には全盛で、我が家では確か『アップリカ???』とかいうメーカだったと思う。
 街には今では殆ど見かけられなくなった人力車が走っていた。裕福な人が乗るタクシーのようなもので、我が家で家族全員が乗った記憶はない。今観光地で走っているものと殆どいっしょだが、幌はすべて黒で、ひざ掛けの裏が赤で
あった印象が強い。
 市民が乗るのは自転車か乗合バス。自転車は冷蔵庫に毎日入れる氷柱を積んだりする必要もあり、荷台が広く、安定感のある黒い大型自転車が各戸に必ず1台はあった。バスはもちろんワンマンではなく、バスガールが乗っており、バスの切符に鋏をいれたり、「次は市役所前 市役所前 **家具は真向かいでーす」などとマイクでアナウンスする。バスガールと言えるほどのものでもなく、小太りの中年女性が多かったかもしれない。車の前部は大きなボンネットがあり、エンジン音高らかに後方からは排気ガスを撒き散らしてさらに道路は舗装してないので土ぼこりがむんむん。
 お出かけは観光バスか、電車。電車は私鉄と国鉄。国鉄は当時「ショーセン」と呼ばれていた。運輸省の路線なので、省線だったのだろう。国鉄には石炭で走る汽車と電車があった。汽車は左右4人掛けの座席、電車は今の電車と同じ6,7人掛け座席。汽車はデッキ(車両の連結部)に乗ると、冬は冷たい風が厳しく、トンネルに入るとこれは季節に関係なく石炭のすすをかぶる。ドアが無い為だが、滑落事故が殆ど無かったのが不思議なほどである。バスは記憶にないが、汽車電車とも、小学校の床と同じで茶色のニス塗りの床で防災上の問題あったのに、平気で大人は社内でタバコをぷかぷか吸っていた。汽車の窓下にについている灰皿が非常に機能的でかつほかでは見る機会が殆ど無かったので電車に乗るたびに灰皿をがたがたいわせて取り外したり、食べ終わったみかんの皮を灰皿に入れては親に叱られていた。灰皿はなぜか色が灰色だった。汽車は鳥栖や下関、宇野など長距離が殆どだったが、吊り下げられている行き先表示板を見て、いつかは九州に行ってみたい、などと夢見てたように思う。省線の切符は硬券で、自販機も無かったので、窓口で神戸まで子供1枚などと言うと赤字で小の入った切符を機械にスライドすると自動的に切符の片側に日付が印刷され、とっても「かっこよかった」。
 自家用車については、ある親戚がラムネ製造をやってたので、オート三輪を数台所有していた。オート三輪はハンドルが自転車やバイクと同じで操舵については力がいるが俊敏確実なもの。メーカーはダイハツ(大阪発動機)だが、車名は「くろがね***」と言った筈。子供たちはこの深い緑色をした自動車
をいつも「バタコ」と呼んでいた。ダイハツで思い出したが、小学校高学年の頃テレビジョンで流行った番組に大村昆主演「番頭ハンと丁稚ドン」があるがそこで広告していた「ミゼット」というオート三輪は爆発的に売れまくり、駅の近くの商店街に寄るとミゼットがいっぱい。
 近日中に「ぼくなつ」に出稿を予定

コメント/トラックバック

現在、この投稿へのコメント/トラックバックは受け付けていません。