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テレビの変遷

ラジオに比べると、テレビの普及には15年程度かかっている。価格が異常に高価であったのと、カラー番組放映が順調に進まなかったせいではないだろうか。
テレビは昭和30年の頃には既に放送を開始していた。しかし大半の家庭では、まだまだ高嶺の花で電気店のショーウィンドー、銭湯や街頭テレビで、大相撲やプロレス、ドタバタ新喜劇などを大勢の人たちが立ち見して愉しんでいた。呼び出し電話を使わせて貰っていたお向いさんでもテレビを見せて貰っていたことがある。カラーテレビは30年代半ばから放送を開始していたが、我が家では40年代後半まで白黒テレビが2代も続いた。映画でさえ総天然色ではなくパートカラーが多く、テレビ番組もモノクロ放送が中心だったので当時ほとんどの家庭にカラーのテレビは無かった。
角丸のブラウン管で下側に大きなつまみが付いているだけの白黒テレビでも高価な家電品で家族皆が大切に扱った。テレビの正しいみかたは、ブラウン管の直径の7倍の距離から部屋を暗くして観るとされていた。選局もリモコンではなく、ロータリー式のつまみで、「ガチャ、ガチャ」と乱暴に扱うとスポッと抜けてしまう。また、機嫌が悪いと画面がコマ送りみたいに上から下へ流れたり画像が歪んだりするするので、頻繁に前面の微調整つまみや裏側の結線状況で調整確認した。真空管式なので電源オンになってもすぐに映像は出ず、初期の蛍光灯のように画像を待っていた。
あの頃のテレビ番組は、家族全員で見るような西部劇やホームドラマがたくさんあって一家団欒を楽しめたような気がする。今と違って、ドラマも単発30分枠の番組が多く、長くても1時間くらいだったのではないだろうか。
我が家に待望のカラーテレビ様が入ってきたのは40年代も後半に入ってからだった。木目調で垂れ幕付きの観音開きの大型贅沢家電品で応接間に置かれていた。カラーについて各メーカーは松下ーパナカラーー嵯峨、ソニーートリニトロンカラーー?、日立ーキドカラーーポンパ、三洋ーサンカラーー薔薇、東芝ーユニカラーー名門、三菱ーネオカラーー高雄、日本電気ー?ー太陽、ゼネラルー?-王朝、コロンビアーホワイトカラーー世界だったと思う。
カラー番組はラテ欄でも、放映中のテレビ画面の右隅にも小さくカラーと表示されていた。テレビから見ている座卓まで長い接続コードが付いてはいたが、手元リモコンでチャンネルが変えられるのはとっても便利だった。

コメント/トラックバック (2件)

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  1. 私の実家の最初のTVは、サンヨーの14インチの白黒。
    ちゃんと、有線のリモコン付きでした。チャンネルが、モーターでグルグル廻るリモコン。
    TV音声はモノラルなのに、補助入力の音声はステレオで、レコードプレイヤーもつながる面白いTV。カラーTV購入後、ワシがレコードを聴くのに貰いました。真空管式アンプのいい音でした。
    水平同期や垂直同期の調整や、コントラスト、chの微調整を、頻繁に行う必要がありました。
    カラーTVは、メキシコオリンピックの時だったと思います。家具調の、19インチ。あの頃で、17万円位だったと思います。
    トヨタのパブリカが、1000ドルカー(当時36万円)と呼ばれた時代です。

  2. はらしょさんへ
     よく覚えてますねぇ。カラーテレビよりも白黒の時代のほうが思い出が多く懐かしい。番組も「怪傑ゾロ」「ララミー牧場」「隠密剣士」「判決」「宮田輝ののど自慢」などなどがdachs飼主の印象深かったです。