2015年7月2日木曜日 PM6時50分投稿 ラヂオ
昨夜、たまたま電話を戴いた方に喪中に騒いでも良いかと相談した。関東で小さい頃から住み育った彼が言うには「喪中で宴会に参加している人が居ても誰も気にしない」そうである。彼も15日の浅草飲み会に参加されるので心強くなり、忌明けてなくても宴席に顔を出すことにした。
しかし、流石のdachs飼主も初七日が過ぎるまでは忌中であり、ジムもテニスも行ってない。週5日程度、ほぼ毎日2時間のテニスとジムに行ってたのが行かなくなると、生活のリズムが狂い、暇な時間が増える。かと言って、外に出て散歩する気にもなれないし、凝っと家に居て、パソコンをいじくっている。運動をしないので1Kgほど体重が微増している。来週からはテニスもジムにも行って通常生活に戻りたい。
以下は記事の内容
*****************
テレビが本格的に普及し始めたのは昭和39年秋の東京オリンピック頃からだと思う。それまでは卓上ラジオが主流であった。家庭への情報伝達、娯楽の主役であったラジオも意外にその歴史は浅く昭和の初め頃からという。
わが家の居間にも大型ラジオが子供の手が届かない箪笥の上に設置されていた。木製で上部にはベークライト製の半円形の窓がついていて選局は中央部の大きなダイヤルで針を微調整して聴く。
右側のスピーカー穴の奥にはぼんやりとした光が見えていた。左上銘板にはラジオではなく、真空管式の「ラヂオ」と書いてあった。4球スーパーとか言っていたが、その頃はジージー・ザーザーとした雑音が多く、本体裏側から出ているアンテナ線風の銅線を握ると幾分か聴きやすくなる。
家族みんなで聞くのは茶の間のこの「ラヂオ」だったが、雑誌「子供の科学」で簡単に作れるラジオに興味を持った僕たちは「ラジオの制作」という月刊誌まで買って勉強した。
イヤホンでしか聞けないが電気も電池も不要な鉱石ラジオ、いわゆるゲルマラジオを夏休みの工作で作った。電線をつなぐ際の工具としてラジオペンチも買って、真空管ラジオを組み立てた。電流が通り、真空管が鮮やかに光った時の感動は今でも覚えている。
子どもにとって新聞は難しい字や難解な時事用語が多くてちょっとばかり取っ付きにくい存在だったが、そのかわりラジオを聞いて世の動きを自分なりにわかった気になっていた。
ニュース以外にも聞く番組はある。歌謡曲や新喜劇、寄席、スポーツ中継などが多かったが、週に1度の連続ラジオドラマや外国語講座などもあって宿題をしながらイヤホンをしてさまざまなラジオ番組を楽しんだ。
そんな懐かしいラジオも30年代以降はハンディなトランジスタラジオや高性能なステレオデッキにとって替わられてゆく。そのうちに家族で楽しむのはテレビ、個人で楽しむのはラジオという時代に入っていった。

