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2005年05月13日
なつかしいこと、あれこれ
Dachs飼主の幼少の砌の我が家は、母の妹家族と一緒に戦後以降ずっと、県営住宅という平屋で四部屋程度の棟続きの所謂長屋に住んでいた。妹の家族は4名、Dachs飼主の家族は当時3人であり、30坪程度の家に7人もが生活していたことになる。小学校4年生の頃にそこから10分程度の海岸沿いにDachs飼主家族は引っ越したので、県営住宅の記憶はそれほど無いが、遊び友達はたくさん居り、小学低学年の遊び(めんこ(ベッタン)、ビーダマ(ラムネ)、ベーゴマ(ばい)、胴馬(どんま)、四角い枠内で手でバレーボールを付きあう遊び(天下町人武士大名、いんさ)、缶蹴り・・・・)は殆どこの県営住宅に居るときに覚えた。カッコ内は関西弁というよりむしろ明石弁かもしれない。
小学校や公園にも近く、校庭でドッジボール、公園ではとんぼや蛙・めだか採り、昆虫採集、池では蓮の実獲り、深夜恐怖散策や覗きなども夏によく遊びまた挑んだ覚えがある。めだかなどは住宅前にある庭の池に入れて、生き物の面倒をみることができたが、水草のほていあおいが繁り過ぎてあまり池のソコが見えなかった。蓮の実やグミ、へびいちごなどはとっても美味だった。たまに公園の奥に入り込みすぎて漆にかぶれて(関西ではマケテという)顔や手を腫れ上がらせたり、池や沼に足を取られてズボンやシャツを汚したこともある。夏場は小学校から午後5時に、冬場は午後4時に「蛍の光」が流れてきたが、悪大将の指示でいつも動いてたので警告通りに我が家に戻ることはむしろ珍しかった。また、小遣いなどもあまり貰っていなかったので、紙芝居屋からはいつもタダ見をするなと白い目で見られていた。紙芝居を見るためには何かお菓子か玩具を買わないと見ることができないということだったが、芝居が始まってからこっそり後ろのほうで見たり聞いたりしていた。演題は、赤の裏地で黒いコートを着た黄金バットや恐ろしげな蛇娘、猫娘、海外ものなどが多かった気がする。只見でいけないのだが黄金バットの痩せ顔は今でもはっきり覚えており、似たような人にあうと黄金バットが出てきたと思ってしまう。
小学校高学年になってからは、2階建て木造家屋に引越した。こちらに遷ってからは、近所に同年代の子供が少なかったことと、中途の引越しだったので小学校は最寄の小学校ではなく今まで通っていた小学校にそのまま通い続けた。いわゆる越境入学であったが、その当時はそれほど厳しくも無かったので、少し遠くなったが今まで通り同じクラスで勉強を続けた。そのため新居では近所の友達はできず、こども同士での遊んだ記憶は殆ど無い。新居は2階建てで庭も充分に広かったので、3人家族にとっては広すぎる感じがした。シバの雑種でエスという名前の犬も飼った。そのころは満足できる犬餌も無く、おかずやごはんの残りを朝晩、Dachs飼主の日課として与えた。冬場も寒かったが「子供は風の子」とオダテラレ、鼻水を垂らしながら半ズボン姿で庭に出て「エス、お手、ヨシ」などと頑張った。小学校時代は冬場はしもやけがひどく餌の入っているアルマイト皿さえ、とっても冷たく朝の食餌を与えるのはとっても苦痛だった。中学後半に入ってからは寒くては勉強できないと親からチヤホヤされて、メリヤスのパッチや長袖シャツを着せて貰った。
夏は蚊帳と蚊取線香、ハエ採り紙を先ず一番に思い出す。蚊帳は知らないが、蚊取線香とハエ採り紙は岡山産である。蚊取線香は大日本女中菊株式会社から出されているが今の金鳥である。少し高かったがポトポトと蚊が面白いほど落ちた。蚊帳を張って寝る前に金鳥蚊取りを5分程焚くと蚊帳の中は一匹も居なくなるのであとは蚊帳の裾を注意しながら上げて自分が入ればあとは朝までグッスリ眠れるというわけである。これより安い蚊取線香で西郷隆盛の絵が入っている「南州香」も我が家では良く使った。これは人畜無害の「南州香」がキャッチコピーで線香独特の強い匂いが少ないので年寄り子供には好評だった。ハエ採り紙はカモイの「リボンハイトリ紙」を使っていた。粘着質の物質をリボン状の紙につけて、天井に吊るしておくとこれも面白いようにハエがくっつく。いわゆるゴキブリホイホイの蝿版である。ハエ採り紙は後日カモイからもっと安いアース製薬に取ってかわられるが、アースも岡山県か兵庫県に大きな工場があった。黄色い紙に大きく赤字で「アース」と書いたハエ採り紙はたいへんインパクトがあった。飲食店では薬が使えないや強い匂いはご法度なので、無味無臭のハエ採り紙は最適。しかし、あまり死んだ蝿がべたべたついている紙を店先に吊るしておくのは美観を損ねるので毎日のように新しいリボンに替えていた筈。カモイもアースも大儲けをしたと思う。
我が家のトイレは昔の和風トイレで、トイレには朝顔や手水鉢(吊るすタイプ)があり、日本手ぬぐいも吊ってあった。今は2階建ての家は両階ともトイレがあるがあのころ、男女別々に用が足せるのは誠に贅沢なこと。洋式便器の便座カバーや便座をいちいち上下させたりする手間もなく、男女ともに即できるのもとっても良い。
そのころ、家にあったもので懐かしく思い出されるものは「卓袱台(チャブダイと読む)」、「風鈴、金魚鉢、うちわ」、「おくどさん(かまど)」、「木製冷蔵庫(氷屋から氷を買ってきて冷やす)」、「寝台(麻製のリラックスチェアでネダイと読む)・床机」、「そろばん、計算尺」、「凧、グライダ、ブリキのおもちゃ」、「縁側」、「肥後の守、ボンナイフ」、「鉱石ラジオ」、「ゆかた、チジミのステテコ、銘仙、割烹着、針山、チャコ、指ぬき、湯のし」、「丸髷、鳥撃ち帽、懐中時計」、「座敷箒、熊手、亀の子たわし」、「床の間、押し入れ、神棚、仏壇」・・・・・。
いろいろ思いでは尽きないが別の機会に続きを書いてみたい。
投稿者 dachsjp : 2005年05月13日 18:24
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