ダックス飼主の昭和コラム#21-#25

平成27年6月号から同年9月号まで

第21号 草野球

2015年05月号
(第21回)草野球

 僕たちが子どもの頃のスポーツといえば、見るのは相撲、やるのは草野球であった。草野球はもちろん、本格的なものでなく、空き地や野原で立木やペンキ缶などをベース代わりにしてテニスボールや軟球を使い「野球ゲーム」を楽しんだ。ほとんどの場合、原っぱ野球に3塁はなく、2塁までの扇形変形グラウンドであった。
 小学校の校庭ではドッジボールやゴム製ボールを体育倉庫から持ち出し、サッカーに似たキックベースを楽しんだ。これは女子も参加して大いに沸いた覚えがある。
 高学年になってグラブを使いだしたので、球は大きく重いソフトボールや堅いトップボールにかわった。トップボールと言うのは1、2バウンドまでは自然だが、3バウンド目で球がぐっと低く伸びる、本格的なもので子どもには少々怖いボールだった。近所のお兄さん連もシュート、ドロップなどの投げ方をコーチしてくれたが、掌が小さいので、ボールをしっかりと握り切れない。
 関西ではグラブのことをグローブと呼ぶ。グローブも小学生の頃は母が作ってくれた布製で、ねだっても豚革の赤茶けた安物だったが中学に入ってからは牛革製を買ってくれた。グリースと呼んだ油をグラブに擦りこみ、革を十分になめすなど丁寧に扱ったものだ。
 最近はサッカーに押され、野球の人気はもうひとつ。子どもたちにはマー君よりケイスケのほうが憧れが強いようだ。道具も多く球が小さくて硬い野球に対して、ボール一つで多人数で遊べるサッカーに推移するのは当然の成り行きかもしれない。

第22号 雨靴と雨傘

2015年06月号
(第22回)雨靴と雨傘

 今年も鬱陶しい梅雨の季節がやってくる。食べ物が黴び、部屋が湿っぽいのは困りものだ。雨の日は外遊びができなかった幼い日を思い出す。
 少しの雨でも親は長靴(ゴム長)を履かせたがったものだ。運動靴は軽いが、ゴム長を履くと重いし、走れない。昭和30年代、街の幹線道路は僅かにアスファルト舗装をしていたが、ほとんどの道路は土の道で雨が降ると水たまりができ、ぬかるむ。  洗濯する者の身になれば雨靴は必須だが子供たちはとても嫌がった。通学路で車が横を通ろうものなら、傘を素早く横にして泥はねを避けていた。「泥をかけられたら車のナンバーを覚えておいて警察に通報するのだよ」と親や先生からも言われたが一度も届けたことはない。
 もう一つは雨傘。あの頃、男の子は黒い木綿張りの小型のこうもり傘を差して通学した。当時、どの家にも番傘、またはから傘と言われる油引きの紙の傘が2、3 本はあり、近所にお使いに行く時はこの傘で表に出た。紙の割に比較的重く、子どもにはキツイのだが、雨が傘にすごく大きい音であたるのが痛快で気持ちよく感じられた。傘骨が竹材なのも気に入っていた。
 女性用に軽い蛇の目文様の傘もあった。蛇の目傘は浅草仲見世で購入できるらしいが、一本くらいは家に常備してあの懐かしい雨の音をもう一度聞きたいものだと思っている。しかし、番傘は傘の立て方が上下逆なので傘置き場では折り畳み傘と同様、困ってしまうのかも。

第23号 ラジオ

2015年07月号
(第23回)ラジオ

  テレビが本格的に普及し始めたのは昭和39年秋の東京オリンピック頃からだと思う。それまでは卓上ラジオが主流であった。家庭への情報伝達、娯楽の主役であったラジオも意外にその歴史は浅く昭和の初め頃からという。
  わが家の居間にも大型ラジオが子供の手が届かない箪笥の上に設置されていた。木製で上部にはベークライト製の半円形の窓がついていて選局は中央部の大きなダイヤルで針を微調整して聴く。
右側のスピーカー穴の奥にはぼんやりとした光が見えていた。左上銘板にはラジオではなく、真空管式の「ラヂオ」と書いてあった。4球スーパーとか言っていたが、その頃はジージー・ザーザーとした雑音が多く、本体裏側から出ているアンテナ線風の銅線を握ると幾分か聴きやすくなる。
  家族みんなで聞くのは茶の間のこの「ラヂオ」だったが、雑誌「子供の科学」で簡単に作れるラジオに興味を持った僕たちは「ラジオの制作」という月刊誌まで買って勉強した。
  イヤホンでしか聞けないが電気も電池も不要な鉱石ラジオ、いわゆるゲルマラジオを夏休みの工作で作った。電線をつなぐ際の工具としてラジオペンチも買って、真空管ラジオを組み立てた。電流が通り、真空管が鮮やかに光った時の感動は今でも覚えている。
 子どもにとって新聞は難しい字や難解な時事用語が多くてちょっとばかり取っ付きにくい存在だったが、そのかわりラジオを聞いて世の動きを自分なりにわかった気になっていた。
  ニュース以外にも聞く番組はある。歌謡曲や新喜劇、寄席、スポーツ中継などが多かったが、週に1度の連続ラジオドラマや外国語講座などもあって宿題をしながらイヤホンをしてさまざまなラジオ番組を楽しんだ。
 そんな懐かしいラジオも30年代以降はハンディなトランジスタラジオや高性能なステレオデッキにとって替わられてゆく。そのうちに家族で楽しむのはテレビ、個人で楽しむのはラジオという時代に入っていった。

第24号 テレビ

2015年08月号
(第24回)テレビ

 テレビは昭和30年には放送を開始していたが、大半の家庭ではまだまだ高嶺の花で、電気屋の店先や銭湯、街頭テレビで大相撲やプロレス、ドタバタ新喜劇などを大勢の人たちが立ち見でたのしんでいた。
 自宅電話もなく、呼び出し電話を使わせて貰っていたお向いさんでテレビを見せて貰っていた。カラーテレビも30年代半ばから放送を開始していたが、わが家では40年代後半まで白黒テレビが2代も続いた。当時ほとんどの家庭にカラーのテレビは無かった。
 映画でさえ総天然色ではなくパートカラーが多く、テレビ番組もモノクロ放送が中心だった。角丸のブラウン管で下側に大きなつまみが付いているだけの白黒テレビでも高価な家電品で家族皆が大切に扱った。
 テレビの正しい見方は、ブラウン管の直径7倍の距離から部屋を暗くして見るとされていた。選局もリモコンではなく、ロータリー式のつまみで「ガチャ、ガチャ」と乱暴に扱うとスポッと抜けてしまう。
 機嫌が悪いと画面がコマ送りみたいに上から下へ流れたり画像が歪んだりするので、頻繁に裏側の結線を確認したり前面つまみで微調整した。真空管式なので電源オンになってもすぐに映像は出ないなど細かなことはあったが「面白い番組を見るために」と思うとそんなことはたいしたことでは無い。
 あの頃のテレビは家族全員で見るような西部劇やホームドラマがたくさんあった。今と違って、ドラマも30分枠の単発連続番組が多く、毎週一家団欒で楽しめたような気がする。

第25号 夏の思い出

2015年09月号
(第25回)夏の思い出

 この夏は猛暑だった。ずっと昔、祖父母などは毎年「今年が一番暑い」と言っていたが、その通りだと思う。僕たちの子どもの頃は、30℃にもなると「日射病になるから家に居なさい」とよく昼寝をさせられたものだ。
 よしずを張った縁側での昼寝には、蚊帳と蚊取線香は欠かせない。家の周りに水溜まりや樹木が多いせいか直ぐに蚊が手足や顔にまとわりついてくる。蚊帳(かや)の中で線香を5分も焚けば、虫がぽとぽとと面白いほど落ちてきた。
 その後は煙臭さもなく1時間ほどぐっすりと眠れた。蚊取線香の生産は岡山県製ばかりで、どの家でも、鶏の金鳥と西郷隆盛の南洲香を愛用していた。ハエの防除には「ハエ取り紙」が庭に面した部屋とお勝手(台所)の隅にあった。粘着性物質の付いたリボン状の紙を吊るしておくとハエがひっかかる。いわゆるゴキブリホイホイのハエ版である。
 夏は扇風機やうちわで暑さをしのぎ、風鈴や麦茶で涼を感じた。夕方、お風呂上がりに汗やあせも取りの天花粉(シッカロール)を顎や首周りにつけて浴衣を羽織っておもてに出る。ネダイと呼ぶ帆布製デッキチェアや床机を出して、近所の仲間と将棋を指したり、線香花火を楽しんだりした。
 その他、夏で思い出すものとして「金魚鉢」「たらいと行水」「アイスキャンデーや縁日のかき氷」「粉末ジュースやラムネ」「地蔵盆」など懐かしさはつきない。

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