ダックス飼主の昭和コラム#16-#20

平成26年6月号から同年10月号まで

第16号 音楽

2014年11月号
(第16回)音楽

  学校の音楽室や視聴覚室で毎週名曲を聴いていたせいか、クラシックに興味を持った友だちが多くいた。中学時代には、欲しかったステレオを買って貰った。ALL In One タイプ、デッキは木目調真空管式でとても大きなものだった。肝心のレコード盤は小遣いでは17a45回転ドーナツ盤さえ高価で手が出ず、やむなく雑誌付録のソノシートを集めはじめた。
 ソノシートはどぎつい赤地に銀色の文字で演奏者や曲目が書かれていた。今や知っている人は、団塊の世代以上の方ばかりであろう。ソノシートは33回転で、20分前後で終わってしまうので、名曲を聴くには物足りない。おまけにザーザーと独特の雑音が入ってしまう。
 クラシックの4楽章全部をまとめて聞きたい時は本物が欲しくなる。通販レコード「コンサートホールソサエティ」の安価なレコードを毎月定期購入した。やはり、薄っぺらなソノシートより光沢のある30aベークライト製がうれしかった。たまに良い音源のものもあって何度も何度も聞いて楽しんだ。
 そう言えば、AMラジオでも多局連携で日曜の午後にステレオ放送をやっていた。FM放送が無い時代に、両方のラジオから違う音域が同時に聞こえてくるのには大興奮した。たまにNHK第1と第2、朝日放送と毎日放送が組んでクラシックをステレオで放送していたのを録音し、何回も聞いたものだ。
 高校の頃にはベンチャーズが流行りだして新しいリズムに夢中になった。クリスマスに1500円を奮発し赤いプラスチック製レコードを購入し、友達と聞いて楽しんだ。

第17号 喫茶

2014年12月号
(第17回)喫茶

 親戚が以前、喫茶店をやっていた。中学校の帰りにたまに顔を見せて苦甘の珈琲を飲ませてもらった。タクシー運転手や近所の老人が手にした雑誌や写真集をみて大人の気分を味わっていた。土曜日には遠慮なく真っ赤なナポリタンやピラフも大盛りで平らげたものだ。
 近頃は、カウンターで飲むチェーン店や家庭や社内のドリップ珈琲で簡単に済ませる人も多いようだ。レトロな雰囲気を持つあの頃の喫茶店は数えるほどになってしまった。高齢者だけが感じるのかもしれないが、喫茶店で本を読んだりゆったり音楽を聴いたりする憩いの時間が欲しいと思うこの頃だ。
 東京に勤めていた昭和40年代は音楽喫茶や歌声喫茶ブームだった。休日は新宿の名曲喫茶「らんぶる」へクラシックを聴きにいったものだ。渋谷や有楽町にも通い詰めたが、それらの店は、今は無くなった。友人に誘われて川崎の独身寮から夕方自由が丘のジャズ喫茶「TAKE FIVE」に行って複雑な洋酒の味と香りも覚えた。
 地元関西に戻ると、和風喫茶も出現していた。女友だちと一緒に馴れない抹茶をお菓子で誤魔化しながら飲んだ覚えがある。いずれにしても若者たちにとって喫茶店は僅かな小遣いで過ごせるゆったり空間であり、映画やボーリングの待ち時間を潰すのに良い空間でもあった。
 食事を出さない純喫茶ではフルーツポンチやチョコパフェなどが食べられた。なかでも、レモンスカッシュはラムネやサイダーとは違う爽やかさがあり、興奮した覚えがある。

第18号 冬の遊び

2015年02月号
(第18回)冬の遊び

 寒い木枯らしの日でも、「子供は風の子」とおだてられ、祖母が手編みしてくれたふかふかマフラーを頭から耳へ被せて表に出た。今はあのように太い毛糸製の温かそうなマフラーにはお目にかかれない。
 小学生の頃は、近所のハラッパでボールや遊び仲間を追っかけて走り回っていた。冬の僕たちの遊びのメインは鬼ごっこ、ちゃんばら、胴馬、ドッジボール、プロレスごっこなど多種多彩なものがあった。いずれも動きが激しく、ハァハァはぁはぁ息を切らせてライバル意識をむき出しに争いながらも、仲間同士の助け合い精神も磨いていたようだ。  夢中になっているとどうしても軽いけがや短こぶが出来る。いちいち家に帰っていては遊べないので、多少の血が出ても唾をかけハンカチ代わりの日本手拭で軽く縛って、夕方まで泥だらけになって遊んでいた。上着はもちろん、運動靴さえも、汚れや傷みが激しく毎日のように洗って貰っていた。
 近所の顔見知りの若者が焼き芋を作っている傍で、大人と同じようにお尻を火に向けて温まったり、焼きたてほくほくのお裾分けを貰ったりする楽しみがあるのはやはり木枯らし吹く寒い朝である。焼きたては、熟した柿のような色になり「びんつけ」と呼ばれ特に甘くて美味しい。近くの公園や森から枯れ木や枯れ葉を探してきてくべるのも、火を触らせて貰える機会の少ない子供たちには楽しく、嬉しいものだった。
 女子と一緒では、縄跳びやゴム跳びをした。女子はさすがに男子よりうまかった。パンツが見えないようにスカートをパンツに挟んで上手に飛んでいた記憶がある。まり突きの際も左手でスカートが邪魔にならぬようたくし上げて右手で上手に突いていた。

第19号 駅の思い出

2015年03月号
(第19回)駅の思い出

 最寄りの駅はコールタール塗りの高く広い頑丈そうな木造駅舎だった。ロータリーも広かった。今では観光地でしか見かけないボンネット型バスの大型が運航されていた。バスガールも停留所にいる回数券の売り子も中年の叔母さんだった。子供の目線では広場の中心にあった大時計塔が一番目立っていた。待合所ベンチのまわりには鳩が沢山いて学校帰りにパンの耳に群がる鳩を追ったりして遊んだ。
ロータリーにはタクシー以外にも人力車や馬車も待機しており、駅舎裏には馬小屋もあった。馬は4頭ほど居たようだ。人参を餌として与えたりもできたが、鳩が残したパン切れ端を馬にもやろうとして注意されたこともある。
 改札口には切符を収受したりパンチする駅員が常駐しており、もちろん切符売り場も駅員が対応する。構内の目立つ場所には「駅伝言板」があった。
 携帯はもちろん、家電(イエデン)も少ない当時は、家族や恋人、仲間などとの待ち合わせに時間を指定して駅の伝言板を使うことも多かった。今は、遅れそうな人が電話して「お詫びコール」を入れるのだが、伝言板は先に待っている人が「待ちくたびれたので一旦戻る」「先に###に行っている」など簡単なメッセージを書いていた。緑板に白墨で1,2行しか書けないので字数の関係で相互にしかわからない暗号めいた言葉も見かけた。また6時間を過ぎると駅員が来て次に使う人のために消してまわる。携帯に比べると相当不便だったが相手を思いやる気持ちの尺度として、今よりも人情の細やかさを言葉で感じられるシステムだった。

第20号 ポイ捨て

2015年04月号
(第20回)ポイ捨て

戦後から東京オリンピック、大阪万国博開催時期までは、公衆道徳はまったくヒドイものであった。公共マナーは悪く、今の我々からすれば、マナー違反ではなく、ルール違反や軽犯罪に該当している。
 例えば駅ではホームだけでなく、階段や線路上にもタバコの吸い殻やゴミが平気でポイ捨てされ、いつ行っても山積散乱していた。ホームにはゴミ箱はもちろん、今は病院でも見かけない痰壺がたくさん置いてあった。駅員が何度も掃除しているのを目にし、子供心に学校で教わる道徳教育との差に大きな矛盾を感じていた。
 路上喫煙は許されていたが公園でも、道端にポイっと捨てて足でもみ消したり、池に放り込んでいた。吸い殻のほかにも空き缶やガムの噛みカスも路上に落ちていた。
 電車のなかでも状況は変わらず座席下には、駅弁の空き箱や土瓶のお茶入れが捨てられている。土瓶急須の底には『御願い 危ないですから窓から空瓶を投げないで腰掛けの下にお置きください』と注意書きがあったほどで、捨て場所として半ば認められている風潮があった。
 「旅の恥はかき捨て」を拡大解釈していたあの時代、ほとんどの人が『赤信号皆で渡れば・・・』精神に甘えていたのではないだろうか。
 話は本題と外れるが、駅弁のお供としては汽車土瓶以外にもポリエチレン製の茶瓶や魚の形をした醤油さしが懐かしい。現在でもポリ製茶瓶はJR伊東駅で「ぐり茶」を入れて販売されている。
 公共マナーの欠如は、ポイ捨てだけでなく、「行列割り込み」「立ち小便」なども昭和の悪い風潮で、道端で子供に大小便をさせてる親を見ることなども日常だった。

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