ダックス飼主の昭和コラム#11-#15
平成26年6月号から同年10月号まで
第11号 住の情景
2014年6月号
(第11回)住の情景
戦争で焼け出されたわが家はしばらくバラック生活をしていた。僕が3歳の時に木造2階建てに建て替えたそうだ。バラックはトタンや有り合わせの木材で雨露をしのぐ程度の建築法で、僕たちの少年時代でも、町のあちこちに多く見られた。
戦後5年で急造になったわが家は、お風呂がなかったので、小学高学年まで銭湯通いをしていた。
トイレは汲み取り式で、一部は庭の畑に下肥として撒いた。季節の野菜や果物が熟すのを朝のラジオ体操前にのぞきに行った。中でもイチジクはとっても甘くて今、店で売っているものより格段においしかった。
お勝手(台所)は土間で、「おくどさん(かまど)」があって、お米は米櫃から1升桝で量り、薪や炭で炊いていた。重いお釜を板の間まで動かしてご飯を杓子で「おひつ」に移すのは僕の役目。釜の底にお焦げができている時には、ちょっと醤油を垂らしておむすびにして食べると香ばしくてうまい。
スイカやビール瓶などは庭の井戸に浸けておいた。肉や魚は氷の冷蔵庫に入れて保存した。小型だが、木目調のしっかりした造りの「アイスボックス」だった。しかし、冷蔵するものの上段に大きな氷を入れなくてはならぬので容量は実質30g前後だっただろう。
夏場は毎朝氷屋が2貫目(7.5`)ずつ黒塗り大型自転車で配達してくれる。春秋は自転車で必要量を直接買いに走った。その氷冷蔵庫も長くは使われず、やがて電気冷蔵庫
に数年で取って代わられた。霜がたくさんついても、電気冷蔵庫は氷より数段魅力的だった。
第12号 コレクション
2014年7月号
(第12回)コレクション
昭和の子どもは趣味としてどんなものを集めていただろう。自ら楽しむというより、仲間が持っている収集物と交換したい、量や質を自慢したいなどの理由があったのだろう。
子どもの小遣いでは切手や古銭は敷居が高過ぎて、シート買いもできず、雑誌後半に載っている通販で消印済外国切手を購入するくらいだが、交換価値がなくすぐに飽きた。修学旅行などでは記念にペナントやミニ提灯を買った記憶があるが現在ではほとんど見ない懐かしいお土産となった。
で、子どもの収集は日々の暮らしで気軽に集められるものに集中した。人気だったのは食堂の紙ナフキンや箸袋、マッチ箱のラベル、牛乳瓶の紙蓋、瓶の王冠などが人気だった。王冠は金属製で裏にコルクが仕込まれており、これを上手にはずせば、シャツなどにつけるバッジとなった。
遊び系男子ではべったん(めんこ)、ばい(ベーゴマ)、ラムネ玉、女子では紙石鹸、おはじき(ビー玉)、消しゴムやシールが主なもの。めんこの絵柄は野球選手や力士も多かったが小学生にダントツの人気は「市川雷蔵」「嵐寛寿郎」などチャンバラヒーロー。今のようにチョロQ、トレーディングカードやガチャガチャなどは当時無かったが、子供コレクションの主流は変わってはいない。
そのほか、例えばグリコのおまけをみんなが集めて自慢しあったこともあった。母親はせっせとベルマークを集めて学期末の参観日に持参していた。
ちなみに、現在隠居中の筆者も旅先でマンホール写真を撮るなど、お金のからぬコレクションを楽しんでいる。
第13号 洗濯掃除
2014年08月号
(第13回)洗濯掃除
妻の体調が悪いようで、洗濯の仕方を昨夜教わった。結婚して30年近いが家で洗濯の記憶は遠い。洗濯機に乾燥機能があるのは知っていたが、洗濯物を洗濯槽に入れると自動的に洗剤量が表示されるのには驚いた。蓋を閉めると、水が自動的に出てきて、濯いでくれる。洗濯から絞りまで手間いらず。便利になったものだ。
昔は重い木製のたらいを土間や庭に持ち出して井戸から何杯も水を汲んで、半分ほど満たす。洗剤も固形石鹸しかなかった。青い太字で「ミヨシ」と印字されていた。大根おろしのような洗濯板の上で巨大石鹸を丁寧に塗りたくってゴシゴシと母が裾を捲って中腰で揉み洗いしていた。冬は寒く冷たい外気の下で、厚手の衣類を洗ってくれる姿は気の毒でもあり、ありがたかった。
その後10年以上経って、わが家に洗濯機が入った。大きな音がする回転式で、洗濯やすすぎが終わる度に水道の栓を開けたり閉めたりと気を配らなくてはいけなかったが、わが家では素晴らしい文明の利器であった。ハンドルを回しながら絞れるので、力のいる水仕事から主婦を解放してくれた。中学生の筆者にとっても楽しく面白い手伝いであった。
掃除についてはどうだろうか。畳は箒で掃き、床や窓障子は雑巾で丁寧に拭く。掃除機で掃くから吸い取るに変わり、住宅用洗剤も進化したが、洗濯ほどの進歩革新は感じられない。そういえば、歯ブラシも50年経っても大きく変わっていない。
第14号 遊びの夏
2014年09月号
(第14回)遊びの夏
ゲーム機もスマホもない昭和の男の子は学校から帰ると夕暮れになるまで外で遊んでいた。屋内で遊ぶのは正月のかるた取りか、仲良し数名の誕生祝いぐらいだったろう。
夏休みになると、朝早くからカブトムシ獲り。これが宿題の昆虫採集標本作りにつながる。その帰り、近隣広場でラジオ体操に参加する。帳面に押して貰うスタンプ待ち行列で、遊び仲間と本日の遊び予定を練る。朝食後は昨日の日記を記入し、海パン一丁で速攻、自宅近くの海岸まで出かける。朝の海水浴はお決まりのコースである。
お昼を済ませ小1時間寝ると、西瓜やかき氷でおやつの時間。その後、扇風機の傍で宿題の続きをしていると、友だちが勉強部屋の窓ガラス越に「3時から公園噴水前で」の声がかかる。
公園や校庭では皆と騒いだ。かくれんぼや鬼ごっこ、缶蹴り、三角ベース(野球)、ドッジボールなどで汗をかいたが、暑いときでも水道の蛇口から直接水を飲み、頭にかければ熱中症にならず、元気でいられたものだ。
夕方は玄関先で縁台将棋などを楽しんだ。足元に蚊取り線香を焚き、軒先の風鈴が涼やかな音を運んでくれた。夕食後は「ダイヤモンドゲーム」で、家族とよく遊んだが、あのテーブルゲームは、今もあるのだろうか?
夜は父母がラジオを占有していたので、銭湯から帰ると明朝に向けて8時過ぎには布団に入っていた。
連日かくのごとくの状況であり、宿題は毎年休みの終りにならないと拍車がかからず、家族全員に協力を仰いだものだ。
第15号 道草
2014年10月号
(第15回)道草
小学校の下校時、学校前の子供向けの露店をよく覗いたものだ。小遣いで買えるおもちゃや、手品などを売っていた。ほとんどが子供だましの類であったが、陳列しているムシロの前に自然と寄っていくのは低学年が中心だ。
男子が興味を示すのは鉄砲。素材が竹の場合は中に湿らせた紙玉を詰め、針金の場合は輪ゴムで飛ばす。いずれも遊んでいるとすぐに壊れるので、何度も買った記憶がある。
「パチンコ」は関西では「いっしゃり」と呼ばれていた。たぶん石槍が変化したもの
だと思うが、皆が持っていた。竹木や金属をY字型に加工し、平型ゴムをつけて、小石などを弾丸がわりに飛ばす危険なシロモノだ。
手品系には何度も騙された。大枚5円を奮発して買って、友だちに見せない約束で家に帰ってワクワクしながら開けてみると、すべて「なーんだ」となる姑息な品物だ。
手品とは違うが、小さな硬い紙を上下2ヶ所紙テープでつなぎ合わせ上下左右にパタパタと絵や文字が軽快に動く遊具にも興味を惹かれた。
小学校から自宅までは歩いて15分。在校中に校区外に引っ越したので後半の私は越境通学をしていた。帰り道には大きな県立公園があり、ザリガニ釣り、カエルの卵探し、セミやトンボ取り、雪合戦などでよく道草を食った。中でも公園の山谷でのかけっこや鬼ごっこは遊びのメインだ。ランドセルやバッグを持っての運動はとても疲れる。衣服の汚れは多分、学校より帰り道につけたものだ。
午後5時までの道草遊びなら、親もご近所の子供たちが帰宅していなければ心配もしなかったような、鷹揚で自由な時代だった。