ダックス飼主の昭和コラム#06-#10
平成25年11月号から平成26年5月号まで
第6号 修学旅行
2013年11月号
(第6回)修学旅行
秋が深まると旅が恋しい。昭和の思い出深い旅と言えば、やはり修学旅行だ。僕は関西出身なので、行き先は小学校が伊勢志摩、中学校は東京、高校は九州だった。
修学旅行もそれぞれの家庭事情を鑑みて、小遣いだけでなく、持参するおやつの量や値段までが細かく制限されていた。水筒も中身は水か麦茶にすべしとされていたが、ジュースの素を隠し持ちしていた子もいた。
移動手段は列車、バス、遊覧船などがあったが、一番楽しかったのはやはりバスだ。アカペラで歌ったり、おやつを食べながら喋ったりトランプやしりとりゲームなどで時を忘れた。
ただ、移動中に船酔いする生徒も多く、顔色が蒼くなったりモドしたりで途中停車をすることも多かった。バスも今は殆ど見ることのない旧式ボンネットタイプだったので排気ガスが前方から侵入して、気分が悪くなるのだろう。
僕は伊勢旅行の際、親にしつこくねだって写真機を買って貰った。もちろん白黒フィルムで、本体レンズの左右上部に◎(晴れ)と△(雨曇)を押しながらの簡単露出カメラ「フジペット」だが、写真家気取りで、皆で楽しんだ。
観光が終わって宿に入ると、食事や風呂もそれなりに楽しめたが、やはり先生の眼の届かなくなる消灯後に枕投げや怪談話で盛り上がる。林間・林海学校、遠足など他の校外学習では肝試し等も楽しかったが、さすがに見知らぬ地では旅館を出ずに遊ぶしかない。
思い出多かった旅行が終わると早速先生から旅行感想文提出を命じられる。今は見ない、手間のかかるガリ板用紙で切りかいたものだ。
第7号 パチンコ
2013年12月号
(第7回)パチンコ
30年代、パチンコは娯楽の王様として全盛期だった。酒を飲めないわが親爺も一時期、パチンコ屋通いをしていた。お袋は家族と食事をした後、面倒だが親爺のために夜遅く鍋に火を入れなおしていた。
日曜日はなぜか私もパチンコ屋に連れ出された。場内は勇ましい軍歌や行進曲に加え浪曲や演歌が流れている。お客は日本手拭を頭に巻いた漁師や和服を着た飲み屋の女将、サラリーマンが目立った。耳にイヤホンと色鉛筆を挟んだ競馬、競輪好きがお酒まで持ち込みサブロクやレンタンなどとやかましく、子供にとって快適な環境とは程遠いものだった。
狭い通路をうろうろして落ちているパチンコ玉を親爺の受け皿に入れてやる。玉拾いが終わると、私と同様に強制連行されて来る子供たちと店裏側の暗い道端で遊んでいた。裏には交換場があり、お客がよく景品の端数でドロップやチョコをわけてくれた。食べずに大事に家に持って帰るのは唯一、密かな贅沢だった。
狭い通路をうろうろして落ちているパチンコ玉を親爺の受け皿に入れてやる。玉拾いが終わると、私と同様に強制連行されて来る子供たちと店裏側の暗い道端で遊んでいた。裏には交換場があり、お客がよく景品の端数でドロップやチョコをわけてくれた。食べずに大事に家に持って帰るのは唯一、密かな贅沢だった。
当時のパチンコ台は単発式しかなかった。左手で玉をこめ、右手でハンドルを握る。椅子は木製の丸椅子で男たちは左足を右足に乗せて一心に撃つ。左側を見ると雪駄や下駄の裏ばかりがみえ汚かったが男らしくもあった。
玉貸場で店のオネエサンに200円を渡すと100個の玉を出してくれる。銀製レバーを二度ひくと、機械の側面に細い通路がありそこから銀玉がキラキラと流れてゆくのは面白く綺麗だった。
パチンコ屋同行は小学校低学年で終わったがその後もお袋から早く帰ってくるよう呼びにやらされた。煙草やパチンコ屋が苦手なのはこの時のほろ苦い経験からなのかもしれない。
第8号 半世紀前
2014年02月号
(第8回)半世紀前
50年前。この頃を覚えているのは団塊の世代以前か還暦を過ぎた方だろう。
昭和でいえば39年。ちょうど50年前は所得倍増躍進時代で日本も国際化の波に乗ってアジア初のオリンピックが東京で開催された。開会式や女子バレー、体操、レスリングなどは僕たちはテレビの前にかじりついて熱心に見た。
わが家のテレビは、か細い4本足の付いたチャンネルをガチャガチャ廻す旧式。開会式の日本選手団ブレザーが赤かったのは当時のわが家のモノクロテレビや新聞写真では知る由もなかったのである。
開催期間中チャンネル争いはなかった。もう50年以上テレビも見続けているのだと思うと感慨深いものがある。
半世紀前には、既に東京モノレール、首都高速道路が開通し東海道新幹線も開業した。関西在住の僕は新幹線を新大阪駅まで見に行ったことを思い出す。受験勉強中だったが、どうしても実物をみたかったのだ。
省線(現在のJR)の初乗り運賃20円は小遣いから出して、不足分は母が財布に補充してくれたと記憶している。白と青の流線型の姿をした夢の超特急「ひかり」と「こだま」はびっくり感動モノで、何枚もこれもモノクロ写真で撮り、友達分の焼き増しをして得意げに配った。
僕はその頃「愛と死を見つめて」に純粋に感動していた多感な高校2年生。憧れの女子が同じ高校にいた。受験勉強と思慕のはざまに揺れながら、僕は坂道半分が舗装されてないデコボコの悪路を、大きな荷台付きの親爺の自転車で高校に片道6キロの通学路を往復していたのだった。
第9号 衣の情景
2014年04月号
(第9回)衣の情景
昭和、特に僕の小学生時代の「衣食住」はどうだっただろうか。まずは『衣』で思い出してみる。
通学では足元はツキホシ運動靴を履き、頭には黄色い桜柄金色バッジを付けた角帽子をかぶらされていた。
小学校の制服は入学や始終業など特別な行事用に式服とし祖母から新調して貰っていた。しかし伸び盛りなので2、3年ほどで小さくなってしまう。
日々通学の服装に厳格な規定はなく気候にあった私服の普段着を着た。当時は貧しい家庭が多く、兄や姉のお古やツギハギの目立つ服で登校しても平気だった。卒業式の時、制服はもはや身の丈に合わず、わが校では進学する中学校制服で参席してもかまわなかった。
大人の女と帰宅後の男は、日常ほとんど和服だった。男は冬は丹前(どてら)、夏は浴衣や甚平で寛ぐ。僕は袂の無い絣の筒袖を着た記憶がある。
着物に襷(たすき)をかけたり裾をからげたり、割烹着や前掛け姿で調理や掃除をしている母は、とても頼もしかった。
春休みには家事する母の手伝いもした。手編み毛糸は母がほどき、やかんの湯気で伸ばした後、僕が毛糸巻き器で丁寧に巻き取って、毛糸球を作った。
着物もほどいて庭や玄関先で木綿は板に貼り、絹物は伸子(しんし=竹ひご)で伸ばす「洗い張り」の手伝いをした。毎年仕立て直しする着物もだんだんすりきれてくる。夜遅くまで繕いものをする母の姿に、心でいつも感謝していた。
母の裁縫箱の針山に刺さっているまち針、糸、チャコ、指貫き、ボタンや端切れで遊ぶのは、男の僕でも一人で暇つぶしができて、興味深かったことを思い出す。
第10号 食の情景
2014年05月号
(第10回)食の情景
わが家は伝統的なご飯食だった。朝は温かい味噌汁、ご飯と味付け海苔、おかずは昨夜の残りものを食べて健やかに育った。焼き海苔ではなく甘辛い味付け海苔は関西では朝の定番。
食品スーパーは無かったので、買い物は近所の八百屋や肉屋、魚屋に行った。当時は尺貫法の量り売りで、重さの単位はグラムでなく「匁(もんめ)」、容量はリットルでなく「合・升」などだった。醤油、米だけでなく肉や味噌も量ってもらって買う。牛肉は「並(肉)を1 0 0め(匁)」などと注文した。
町内には注文をききに回る「ご用聞き」も回ってきたし、商品は自転車で直ぐに配達してくれた。アイスボックスといわれる木製冷蔵庫しかなかったので、夏場は面倒だが買い物は毎日ではなく朝晩行かなければならなかった。衛生状態もそう良くはなかったので、生ものは極力避けて火を通したものが食生活の主流である。
鯨の竜田揚げや生姜のきいたジンギスカン焼きは安くて美味しかったのでよく食べた。月に数度、母がまとめて作ってくれる野菜たっぷりライスカレーも何杯もおかわりし、お腹がパンパンになった。
30年代に入ってからは珍しい(ハイカラな)ものが店先に並びだす。ピーマン、チーズ、ウィンナーソーセージ、コーンフレークなどなど。親に聞いても食べ方が、あるいは食べものかどうかさえわからなくて、一年以上様子見で口に入らなかったものもある。
休日は家族そろってよくデパートに行った。普段着なれないよそゆきの格好をさせられるのは嫌だったが、6階大食堂に行くのが一番の楽しみだった。旗とおもちゃのついたお子様ランチや緑色のクリームソーダの味は思い出深く懐かしい。(