ダックス飼主の昭和コラム#01-#05

平成25年夏からふれあい毎日さんからお誘いがあり、毎月昭和の懐かしい話『僕たちの昭和ものがたり』を書かせてもらうことになった。

平成25年6月号から同年10月号まで

第1号 くすり

2013年06月号
  早いもので、美空ひばりさんが亡くなってはや四半世紀。ぼくは昭和生まれの団塊世代。千葉に暮らす関西人である。小中学生時代をメインに元気ある昭和をひととき切りとって懐かしんでみたい。

(第1回)くすり

 「くすり」で一番に思い浮かぶのがラッパのマーク。父が勤務先から貰ってきた薬箱には毎年「クレオソート丸」というとってもクサい黒丸薬が入っており、お腹が渋った時には鼻をつまみながらでも一気に飲んだものである。いまは糖衣錠だが、オブラートとよぶ超薄パラフィン紙に包んで飲めば、抜群の効果があった。
 もうひとつ浮かんだのは「ミカロン」。硫黄臭の強い薬だったが、薬効は高かった。ごみと汗にまみれた頭にたくさん出てくるフケが一挙に消えてくれるのは気分爽快になる。残念ながら今は販売されていないらしい。
 傷薬や消毒液の代名詞「あかちん」や「ヨーチン」にもお世話になった。正式名はマーキュロクロム、ヨードチンキという。傷薬マキロンの命名にも赤チンが関係しているのだろう。
 包帯については伸縮包帯という便利なものが今はある。ぼくの小さいころは赤チンを塗った傷口の上を脱脂綿で覆い、包帯でグルグル巻きして最後に包帯の端っこをふたつに裂いてそれで、縛り止めたものだ。
 また、「まくり」という虫くだしがあった。この頃には消毒剤や伝染病予防にDDT、BHC、BCGなど、強い薬や注射があり、保健室に向かうのが怖かった。
 ちなみに、子供が悪さをするとお医者と交番、それに「ことり」のところに連れてゆくと言えば子供は怖がって即良い子に変身した。「ことり」とは子取りのことで、今で言う「幼児誘拐犯人」である。
 今の小学生には注射は殆どしないそうだが、戦後10年ほどは調子悪ければすぐ内科医に連れて行かれ、パンツを下ろされて尻ッタブに注射をブスッと打たれたものだ。

第2号 おやつ

2013年07月号
(第2回)おやつ

 ぼくたち団塊世代は子供の頃、どんなおやつを食べていたのだろう。戦後10年も経っていないあの頃は欠食児童も多く、甘いものよりも、元気が出るおやつを好んで食べていたと思う。
男子は一粒300米のグリコや、強くなれる「タンクロー飴」が大人気だった。明治の「サイコロキャラメル」も高価な一粒を大事に舐めた。
「マーブル」「アポロ」「チロル」などョコ系もあったが男子には不人気のようだった。
 先日大阪なんばを散歩していたら、懐かしいお菓子に出くわした。オリオンの「ココアシガレット」と前田製菓の「クラッカー」が今でも売られていた。あんかけの時次郎と珍念が神社前でしていた寸劇が思い出される。その後、あたり前田の「クリケット」も販売されたらしい。
 ほかに思い出せるおやつは「サンリツのカンパン」「都の酢昆布」「マルカワのオレンジふうせんガム」「サクマ式ドロップのハッカ味」「ワタナベのジュースの素」「タケダのプラッシー」などがあげられる。
 お好み焼き、関西では「肉転(にくてん)」と呼ばれていたがこれも家や野原に持ち寄って友達同士で食べた。包装は、粗末な「濃緑のザラ紙+新聞紙」か「たけのかわ(筍の皮)」が定番だった。
 菓子パンも子供の大好物。山形食パンで片方にジャム、もう一方にクリームが入った「アベックパン」をよく食べた。食パンは中をくりぬいて砂糖をまぶして頬張りながら公園などで走り、遊んでいた。
 自転車で来る「紙芝居」と同様に、ロバに曳かれてくる「蒸しパン屋」も子供に人気が高かった。関西ローカルかもしれないが、「♪ろばのおじさん チンカラリン・・・」は高齢のかたで知らない人はいないと思う。

第3号 おふろ

2013年08月号
(第3回)おふろ

 富士山がこのほど世界遺産に登録された。それで思い出したのは銭湯の大壁に雄大に描かれていた富士の絵。ペンキ絵ではなく細かなタイルを組んであったように記憶している。
 入浴料は風呂銭と呼び、小銭を持ち「フロイコカ」の声で、皆で出掛けて行く。端午の節句には菖蒲が束になって大きな袋に入って浮かんでいた。乗ったり、抱きついたりして暴れ回った。
 あがり湯が済むと冷水槽でタオルを絞り、体を拭く。バスタオルなどはなく浴用兼用の日本手ぬぐいでしっかりと顔と体を拭いた。
 湯桶は当初木製だったが、プラスチック製洗面器に変わりつつあった。「けろりん」「ノーシン」などと広告していた。石鹸、シャンプー、歯磨きなどは自宅から持参するが、常連客は下駄箱の上に置きっ放しにしていたし、家族で行く時には母が髪を洗い終わった頃に浴用品を男女湯の壁越しに声をかけて渡していた。
 風呂からあがると3円で炭酸飲料のラムネや果汁のミカンスイ、コーヒー牛乳を飲んだ。浴場の鏡、扇風機、カレンダー、冷蔵庫、体重計(カンカンと呼ぶ)にはご近所の店の販売広告が入っていた。
 脱衣場の壁で一番大きなスペースを占めているものに鏡があるが、次に大きなのは地元映画館の広告だった。時代劇、現代劇、併せて3本立て30円級の映画ポスターが娯楽の情報源だった。「キューポラのある街」の吉永さんのポスターはとても綺麗で憧れた。

第4号 夏の海

2013年09月号
(第4回)夏の海

 今夏は立秋を過ぎてからも猛烈な暑さに襲われた。子供の頃に父が「過去最高の暑さ」と毎年言っていたことを思い出す。いま、親爺の歳になってみると、何となくわかる気がする。
 夏はやっぱり海。学校のプールは規則ががんじがらめで、清掃もあり面倒だ。我が家は3分も歩けばすぐ海岸に出られる。夏休み、午前中は宿題をやらされたが、昼食後は海パンとタオルと水筒持参で友達と浜に向かった。海岸に出るとまさに「白砂青松」の世界。漁船の陰では大人が網の繕いをしたり、タコ漁に使う壷やランプの調整をしていた。プロの老漁師は強い潮風、太陽、海水などで、(白内障なのか)眼が青や銀色に暗く濁っていて、子どもには恐ろしく感じられたものだ。
 子供たちにとって海岸は、最高の遊び場。我ら海の子は「海水と気温との差」「海流」「海の生き物」の実験や調査と称して泳ぎにいく度に計測し、それで夏休み自由研究を済ませた。生物研究のフナムシはゴキブリとシャコを足して割ったようなのが岩場にたくさんいて、気持ちが悪かった。
 中学になると「もり」を携えて潜り、海女のようにタコやキス、ベラ、テンコチ、アブラメの類を捕った。学校や親からは禁止されていたが、捕った魚貝を浜で焼くと塩味と焦げ目で最高の味がした。
八月は上旬に七夕飾り、下旬にはお盆の供物一式を海上に流す。茄子や胡瓜で作った牛馬、それに西瓜、とうもろこし、ぶどう、ほおずき、素麺などを供え、それをお盆の送りの日に海岸に持ってゆき、流した。

第5号 運動会

2013年10月号
(第5回)運動会

 このほど2020年の五輪開催地が東京に決まった。昭和の東京五輪招致決定は開催5年半前の1959年5月だった。前年末には東京タワーが完成し、4月の皇太子殿下ご婚礼パレードで日本中が祝賀ムードに沸き立っていた。その矢先に五輪開催の報が入った。アジア地区初めての開催で戦後は終わったことを全国民が実感できるビッグイベントだった。
 関西在住で当時小6だった僕は、五輪や勉強よりも、運動や遊びのほうが面白かった。僕たちのスポーツの祭典はなんといっても運動会だ。校庭には万国旗が飾られ、来賓が並ぶテントが張られ、縄が張られた外側には弁当片手の父母が声援し見守る。
 男子は白い開襟シャツ、半ズボン、頭には紅白の帽子、足元は「スッポン靴」と呼ばれる白い靴下足袋を履いて臨んだ。女子は紺のちょうちんブルマーに紅白の鉢巻きをしていた。
 運動会での演目は多種多様だ。「綱引き」「二人三脚・リレー」「障害物・借り物・パン喰い競争」「騎馬戦・棒倒し」「玉入れ・組体操」「応援合戦」「フォークダンス・吹奏楽」「父母参加」などで興奮したり、苦手だった少々恥ずかしいプログラムもあったが、その後の人格形成に少しは役立ったのかもしれない。
 頑張って1等賞をとれば学習帳、2等は鉛筆などと団体個人別に賞品が付く。最近は優劣を感じさせないよう、リボンの色などで分けられているそうだが、1等賞の常連はやはり確かにいる。運動能力はある程度の才能がないと、努力だけではいかんともし難い。

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