木下街道膝栗毛W
2010年10月14日日曜日、木下街道膝栗毛の4回目は本埜村と印旛村を歩いてきました。
地元を歩く4回目
今日は、知り合いのテニスメートのお誘いがあって久しぶりに「木下街道膝栗毛」に参加した。2003年の15回目、2005年の17回目、2006年の18回目と三回参加してきたが、本日は22回目の膝栗毛となる。
今までは通称木下街道(県道59号市川印西線)を中心とした丁寧な観光説明・簡単接待付きのウォーキングだが、今回は「新印西市誕生記念コース」として2010年7月17日、印西市に入った旧印旛村と旧本埜村を巡る散策となった。開催テーマは「竜神降雨伝説と松虫姫伝説の卿の歴史に触れる」となっている。
今回の歩行距離は右GPS記録のとおり、15.3km、高度39m、実歩行時間2時間強、移動平均距離4.1kmのウォーキングとなった。
今回はじめて、お誘いを受けた同行の方がいらして、その方から2,3質問を受けたのですが、dachs飼主は神や仏については殆ど知らない、と言うことを痛感した。帰ってきてから調べた結果の2,3を参考の為、ご披露しておきます。これからは、もっと勉強をしておかなくては、大恥をかいてしまいます。
- 神社と寺が隣にあるのが多いのは、気のせいですか?
- 平安時代から江戸末期までの700年以上の間、神仏習合でした。仏様と神様は、見た目や名前が違っていても、実は同じ。ということです。これは仏教が日本で勢力を拡大するときに使った方便ですが、700年も続けばそれが正論になります。
寺の中に神社があるパターン(逆もありますが非常に少ない)がとても多かったのですが、明治になって神仏分離を国策でやるようになり、廃物希釈や国家神道の流れも生まれたました。寺をなくして、神社だけ残すようなことを明治の一時期に行われたようです。 - 薬師とは
- 薬師如来(やくしにょらい)。薬壺を持ち、病気を治す仏様として有名。薬師三尊は両脇に日光菩薩、月光菩薩。まわりを十二神将が守護し、昼夜24時間全方向にいる病の人を助けてくださいます。
阿弥陀が来世での安らぎを約束するのに対して薬師は現世での安らぎを求める点が異なっています。それだけ現世の利益を求める仏であるため逆に現実に疲れ果てた民衆にはやはり来世を約束する阿弥陀の方が頼りに思えたのでしょうか。薬師信仰は阿弥陀信仰からするとどうしても層が薄いように思われます。
午前中〜昼食
朝から天気がすっきりしない。予報によると、この状態が終日続くようだ。
このウォーキングは「印西市観光協会」と「印西ふるさと案内人協会」が主催し、同市教育委員会が後援している。観光ガイドは黄色い法被を着た案内人協会の方が多分ボランティアでやってくれているのだろう。事前に郷土を調べ、判りやすく説明し、話していただいた。ありがたいことである。
いざ、印西牧の原駅から元気に出発。駅を出てまずは印西市最高峰の大築山に到着した。最高峰と言っても、海抜41mで、千葉の最高峰「愛宕山(南房総市)」の408mに比べるとその10分の1のスケール。ご覧のとおり、階段で登っても、100段ほどで登りきれる。黄砂の影響か、少しもやっていたので、頂上からの写真は撮らなかったが、冬の晴れた日なら頂上から東京スカイツリーがよく見える。
その後、田畑の間を抜けながら歩いていると、旧家がポツポツと散在している。なかも大きな「海老原家」の中も見せて戴いた。大きな家なので、固定資産税も相当かかるだろうな、と下世話なことを心配しながら歩いていると、ほどなく「竜神降雨伝説」で有名な龍腹寺に到着した。このお寺は深川不動尊や成田山とも関係が深いが、不思議なことに寺の名前が「龍腹寺」とは一切書いていない、とのこと。高さ1m、直径60cmほどの鐘と鐘楼も由緒ありげにポツンと存在していた。
昼食前に「中根城跡」と呼ばれている中世の城跡を見学したが、説明がないと竹林としか見えず、説明を聞いても城郭や土塁の跡も判然としない。昼食は本埜第一小学校の体育館をお借りして、コンビニで購入してきたサンドイッチとカレーパンを食べた。普段のウォーキングでは過去昼食を摂ったことは数えるほどしかない。軽食でもそれほどお腹は空かないと思う。食後、本埜村の民話を15分ほど聞かせて貰った。
- 龍腹寺
- 千葉県印西市(旧・本埜村)にある天台宗の寺院。山号は玄林山。本尊は薬師如来。
1681年(天和元年)の縁起によれば、917年(延喜17年)の創建とされるが、807年(大同2年)の創建とも、天平年間(729年 - 748年)龍角寺(現在印旛郡栄町)を開いた釈命の創建ともされる。当初勝光院延命寺と称していたが、ある時、この地域が干ばつに襲われたとき、印旛沼の龍が天に昇って雨を降らせたが、3つに分かれて地に落ち死んでしまった。その胴の部分がこの地に落ち、それを祀り「龍腹寺」と号したという。
かつての同寺の本堂は1863年(文久3年)に創建されたものだったが、1945年(昭和20年)の東京大空襲によって焼失した成田山東京別院深川不動堂(深川不動尊、東京都江東区)の本堂再建のために提供される事になり、1950年(昭和25年)に移築された。現在の本堂はその後建立されたものである。また、仁王門・地蔵堂は本堂より約100mほど離れた場所に位置している。
午後〜帰着
午後1時に本埜小を出発し、小一時間歩くと、栄福寺薬師堂に着いた。薬師堂のご開帳は33年に一度しか開かれず、次回は平成29年とされている。今回のウォーキングで市からの働きかけがあったのか一部を開けていただき、天井の絵を見せていただいた。絵は楽器を奏でる天女だそうで3枚の図柄があった。その他、左甚五郎作の絵もあったようだが、ホントウかどうか判らなかった。
その後、松虫姫公園で主催者より「お饅頭」「お煎餅」「おーいお茶500ml」の接待を受けながらしばしの休憩。松虫姫伝説をガイドさんからお話してもらった後、松虫寺に向かう。
松虫寺でもご開帳は33年に一度だが、瑠璃光殿に安置されている七仏薬師像の写真を見せて貰った。坐像を中心に立像が3躯ずつ左右両側に並ぶもので、平安時代後期の作らしい。松虫寺は何度も歩いているが、しっかりとした説明を聞いたことがなかったので、たいへん興味深かった。
松虫寺からどんぐりお屋根の印旛日医大駅前には午後4時に無事到着し、中央駅まで2駅420円の乗車券を買って帰った。駅のテレビで石川遼が住友ビザ太平洋で優勝真近の映像を見、サスガ、と感心しつつ帰宅。
- 栄福寺
- 県下最古の建造物。聖武天皇の時代に開基され、棟札に「文明4(1472)年2月成就」とある。熊野神社と同敷地内にあり、豊かな自然に囲まれている。 本尊の薬師如来は729年(天平元年)に造られたと伝えられている。
- 松虫姫伝説
- 奈良時代、東大寺を建立した聖武天皇の第三皇女に松虫姫(不破内親王)という美しい姫君がいました。 年頃になって重い難病にかかり、姫はもとより父帝や母の后の嘆きはひとかたではなく、あらゆる治療の手を尽くしましたが、病は重くなるばかりでした。
ところがある夜、坂東の下総に効験あらたかな薬師如来があるという夢のお告げがあり、天皇は藁にもすがる思いで松虫姫を下総に下向させました。 板東は聞くもおそろしい化外(けがい)の地であったので心ぼそいことかぎりなく、従者は一人逃げ二人去りして、下総の国府に着いたときには、杉自という乳母と数人の従者だけになっていました。
ともあれ、一行は国府をあとに疲れた足を引きずるようにして、印旛沼のほとりの萩原郷にたどり着きました。 すでに陽は西に傾き、訪ねる薬師堂は満々と水をたたえた湖沼を見下ろす丘の上にありました。 都を遠く離れて、見知らぬ板東の、人家もまばらな貧しい村里にたたずむ心ぼそさはたとえようもなく、人々はただ呆然と立ち尽くすばかりでしたが、今の松虫姫にとっては、この薬師仏にすがりつくほかに生きる望みもありませんでした。 必死に祈ることだけが、ただひとつの生きる証しなのでした。 姫は心をとりなおして、薬師堂のかたわらに草庵を結びました。
その草庵で雨の日も風の日も、粉雪が舞い乱れて寒風吹きすさぶ冬の日も、朝夕一心に祈り続けました。 乳母や従者たちも、思い思いに近くに小屋をかけて、姫と行を共にしながら、都で習い覚えた機織りや裁縫、養蚕などを村人に伝え、生活の糧としながらかしづいていました。
数年の歳月はまたたくまに流れ、姫の一念は御仏に通じて、さすがの難病もあとかたもなく全快しました。 姫はもとより従者たちの喜びは一方でなく、また都の技術を教わった里の女房や娘たちも、今はすっかり松虫姫を慕って共に喜んで、病気全快の報せはただちに都へ届けられました。 都からはさっそく迎えの人々が差し向けられましたが、松虫姫は、見知らぬ下総の地で途方にくれる自分達を親切にいたわってくれた淳朴な村人たちに報いるため、乳母の杉自をこの地に残し、都の技術を広めよと命じて、名残を惜しむ村人たちに見送られて都へ帰って行きました。 このとき、都から姫を乗せてきた牛は年老いて乗用にたえられなくなっていましたので、乳母と共に残して行くことにしましたが、これを悲しんだ老牛は自ら近くの池に身を投じて果てたといいます。
村人はその牛の心根を哀れみ、今も「牛むぐりの池」と呼んで語り伝えています。 松虫姫から詳しいようすを聞いた聖武天皇は、効験あらたかな尊い薬師佛を野末の街道にさらしておくのは畏れ多いとして、僧行基に命じ、七仏薬師群像を刻して献じ、一寺を建立して松虫寺と名付けました。
その後、松虫姫は異母兄塩焼王の妃となりましたが、皇位継承にからむ藤原一族の政争にまきこまれ、二度にわたる流刑の悲運に見舞われながら、数奇な生涯を終えました。 - 松虫寺
- 千葉県印西市(旧・印旛村地区)にある真言宗豊山派の寺院。山号は摩尼珠山。院号は医王院。本尊は七仏薬師瑠璃光如来。建立は天平17年(745年)といわれる。言い伝えによれば、聖武天皇の第3皇女松虫姫(不破内親王のこととされている)が病にかかってこの地を訪れ、その没後行基が開山となって創建したという。
木下街道膝栗毛28枚
以下は撮ってきたわずかの写真です。下のアルバムはクリックすると拡大写真が表示されます。元画面には「戻る」釦を押してください。
また、スライドショーでも見られるミニアルバムを作りました。