坐禅の作法や意義を学ぶ
ストレスの多い時代、坐禅は心を救う方法として効果が実証されています。『勧坐禅儀』で坐禅のしかたを著した道元禅師は、一歩進めて、考えることも、効果を期待することもせずにただひたすら坐る「只管打坐 」を教えています。
曹洞宗では、坐禅を組むことにより、自己を確認し、安心を求めてゆきます。
坐禅による静寂は命と心の根源
普勧坐禅儀
普勧坐禅儀は、曹洞宗の開祖「道元」が坐禅の仕方(作法や意義も含む)について解説した文言です。読むのは坐禅のときで、全員で低声に読誦する。全部読むと長いので東祥寺坐禅会では3回にわけて読みます。
普勧坐禅儀は、道元禅師が中国で修行後の1227年、28歳のときに坐禅を紹介する文として著したものです。文体は当時流行った四六駢儷文という文体が用いられている。
序文
原ぬるに夫
宗乗
況
大都
然れども毫釐
直饒
矧
古聖
所以
須らく回光
恁麼
序文を意訳
根源を求めると、仏の道の根本は、存在するものすべてにゆきわたっていて、なんでわざわざ”修行と悟り(行為と報酬)”という求めの心を借りる必要があろうか。
仏の道という根本の真理は、すべてにゆきわたって自由に働いているのです。なんでわざわざ努力工夫を用いる必要があろうか。
ましてや、在るべきものはすべてそのままはるかに人間の意識を超えているのです。だれが煩悩を払う手立てを信じるだろうか。
すべてはいまここを離れないのです。どうして努力修行の歩みを利用する必要があるのだろうか。
ましてや、在るべきものはすべてそのままはるかに人間の意識を超えているのです。誰が煩悩を払う手立てを信じるだろうか。
すべてはいまここを離れないのです。どうして努力修行の歩みを利用する必要があるのだろうか。
そうではあるが、毛筋ほども間違えると、結果は天と地ほども違ってしまいます。感情による迎合と反感という汚れた心が少しでも生起すると、もつれてしまって、染汚する以前の本心(不染汚心)を見失うのです。
たとえ、解脱を会得したと悟り、さとりが十分だといっても、ちらりと智慧の道をのぞき見したにすぎません。禅の道を会得し、本心がわかったと、天を衝くほどの心意気を挙げ、さとりのほとりの周辺をそぞろ歩くようになったとしても、ほとんどがとらわれを飛びこえて自由に活動する道を失っています。
ましてや、あの祇園の生まれながらの聖人【である釈尊】の、六年間の苦行坐禅の跡形を見るべきです。嵩山少林寺に達磨大師が坐禅(仏心の印)を伝え、【二祖慧可に会うまでの】九年間壁に向かって坐って禅の心に徹した、その誉れは世間に聞こえています。
本物である古人・聖人でさえそうなのですから、心弱きいまの人はなおさら修行すべきです。
ですから当然なこととして、言葉・観念・概念を追いかける理論解釈はやめるべきです。
為すべきことは、自己の不染汚心から出てくる光で自己を照らす、謙虚を学ぶべきです。体と心のとらわれは自然に抜け落ちて、意識分別の働きだす以前の本来の顔が実現します。
このような真実になりたいと思うなら、すぐさまそのこと自体になったらよろしいのです。
本文
夫れ参禅は静室
諸縁を放捨
心
豈坐臥
尋常
或は結跏
謂
半
寛
次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌
乃
耳と肩と対し鼻と臍
舌上の顎
鼻息
不思量底如何
非思量
此れ乃ち坐禅の要術なり。
所謂
菩提
公案
若
當
若し坐より起
嘗
況んや復
豈神通
声色
那
本文を意訳
そもそも、坐禅をするには静かな部屋がよい。食べる量にも節度を持ち、生活上のいろいろな雑用を離れ、よろずの世俗の心配ごとをやめて、この世の善し悪しにわずらうことなく、政治の是非、思想の是非などにかかずらわってはなりません。
心の主体・意識の働き・認識・主張などをめぐらすことをやめて、念う力・創造する働き・
観察する働きをやめて、仏になろう、さとりを得ようという物欲し根性をもたないことです。
ましてや、坐禅とか行住坐臥の生活とかに関係なく、すべて同様です。
世間一般に、坐る場所には厚手の坐褥(いまでは畳)を敷き、その上に厚い坐蒲を使います。
【足の組み方は】ひとつには両足を組み(結跏趺坐)、もうひとつは片足を組み(半跏趺坐)ます。伝統的にいいます。両足を組むのは、まず右足を左の腿のつけ根に深く乗せて組み、左の足を右の腿の上に深く乗せて組みます。片足を組むのは、ただ左の足を右の腿の上に乗せます。
ゆったりと着物と帯をつけ、きちんと整えておきます。
次に右手を上向けにして腿の上に組んだ左足の上に乗せ、左の手を上向けにして右の手のひらの上に乗せて、両手の親指のさきがかすかについて互いに水平に支えあうようにします(法界定印という)。
まさしく姿勢を正して、左や右にかたよったり、前にかがんだり、後ろに反り返ってはいけません。
耳と肩が垂直になり、鼻と臍と垂直に並ぶようにすることが必要です。
舌先を上あごの歯のつけ根あたりに押しあて、唇を歯につけるようにひきしめ、目は基本的にいつでも開いておきます。
鼻で静かに息をし、姿勢が整ったら、あくびのように口を開けて長く息を吐きます。左右に体を倒して腰を伸ばし(左右揺身)、岩山のように堂々と坐り、静寂に安住し、私というこれそのものの染汚した意識分別以前の静寂なところとは何かと心をめぐらしたまえ。
それは考えを超えたところなのです。
これこそ坐禅の要なのです。
いうところの坐禅は、さとりのための手段・精神統一・健康禅なっではありません。ただ命と心を開放する安心の教えの門なのです。
さとりに徹底する実践・実証なのです。さとりの真理は丸出しで、鳥を捕る網や籠というような手段は遠く及びもつかないのです。
もし、この真意を得たら、竜が水を得て生き生きするように、虎が山に帰って本来の威力を発揮するようなものです。
まさに知るべきです。仏の真実はおのずから丸出しになって、心が沈んだり、うわついたりすることがばったり抜け落ちます。
もし、坐禅から立ち上がるときは、徐々に体を動かして、静かに立ち上がってください。乱暴にしてはいけません。
過去の例証には、迷いの世界(六凡・六道)を超え、仏・菩薩などの聖人(四聖)を超え、坐ったまま死に、立ったまま亡くなるのも、みなこの坐禅の力から出てくるのです。
ましてや、倶胝和尚の一指頭の禅、南泉和尚の百尺竿頭進一歩の禅、洞山禅師の「把針のこと、そもさん」の禅、文殊菩薩が打槌して「法王法如是」と仏をほめたことなどの禅機をひねりだす働きや、青原和尚と石頭和尚は払子を立て、黄檗和尚は拳骨を振り上げ、徳山和尚は棒で打ち、臨済大師は一喝した、こうした行いでさとりに一致するのも【不染汚の静寂な心であって】意識分別で理解することはできません。
どうして、神通力を得たとか、さとりを得たとかいうような似非禅師にわかろうか。
声欲・色欲などの感覚世界(六境)とは異なる仏の行いなのです。
どうして、知識見解以前の法則でないはずはありません。
ひろめる章
然れば則ち上智下
専一
修証自
凡
唯
万
何
若し一歩を錯
既に人身
仏道の要機を保
誰
加以
倏忽
冀
直指
久しく恁麼
宝蔵
ひろめる章を意訳
このようなわけで、禅は賢い人とか、ものわかりの悪い人とかを選びません。利発な人とか、鈍感な人とかを分け隔てしてはいけません。
ひたすら信じて真実心を工夫すれば、それが本当の道の実践というものです。さとりの呼びかけと修行の応答は同時であって、しかもそれぞれは混乱しないのです。あらゆる物事に対応しつつ動揺しないでいられるものです。
大体において、釈尊が教化した世界(自界)、その他のあらゆる仏の世界(他方)、西のインド(天竺)から東の中国・朝鮮・韓国・日本と、必ず坐禅を維持し、みな禅宗(仏心宗)の門風を振るってきたのです。
ただただ無心に坐って、岩のように静寂な心に妨げられて、雑行に目を奪われる暇がないのです。
仏道修行には多様な道があるとはいえ、心迷わず坐禅すべきです。
どうして自己の本心という自分の坐る場所を投げだして、むやみに、よその国の迷いの境遇をうろうろする必要があろうか。
もしも、最初の一歩を間違うと、直ちに踏み間違えるのです。
すでに人間という肝要な能力を与えられているのです。無益に時間を過ごしてはいけません。
仏の道の根本の働きを己のものとして維持していくのです。だれが無意味に火打ち石の火のような一瞬の人生の楽に目を奪われてよいものか。
そればかりか、肉体は草の露のようにはかなく、運命は稲光のようにたちまちに空しくなり
、一蹴に失われるものです。
願うところは、仏の道を学ぶ気高い方々よ、長い間、模型の竜になれて、本物の竜に会ったときに疑ってはなりません。
端的に自己の不染汚心を指し示す道に努力し、観念の学を超え、外に求めることを忘れた人こそ尊いのです。
仏方のさとりの合致し、祖師方の静寂な心を継いでいきたまえ。
長くこのようにしていれば、必ずそのようになるのです。
自己の本心という宝の蔵は、それ自体の力によって開き、受け用いることは自在になります。